宏道流の歴史

宏道流の歴史

宏道流の略史

  宏道流は江戸時代中期、享保より享和年間(1716~1804)に至る間に、 常盤井御所古流の第19世梨雲斎望月義想(1722~1804)によって創流された。 望月義想は常盤井御所古流の家元で、御所の花飾りを担っていた。 中国「明」の詩人でもあり文学者でもある袁中郎宏道の著した『瓶史』の花論に共鳴し、 その思想に心酔し、「袁中郎流」として創流したが、次第次第の人口的な膾炙のもと 「宏道流」と呼ばれるようになり、今日に至っている。流派の呼称が人々によって支持されたというのは、 いけばな史上、誠にめずらしい形態と言える。

『瓶史』

  袁宏道中郎著。明代の万暦28年(1600)に刊行された中国の花書で、日本では元禄9年(1696)に刊行された。
 中国の文人たちの瓶花趣味を伝えており、瓶花の心得が多岐にわたって記されている。文人趣味の瓶花は、日本の座敷飾りの花とは異質の清新な作風の花が多く、江戸時代のいけばな界に新風を吹き込んだ。なお、本書を初心者向きに解説した『瓶史述要』(明和7年〈1770〉刊)、日本人としてわかりやすく編纂した『瓶史国字解』(文化6年〈1809〉刊)、『瓶史』に記載された花材を研究した『瓶史草木備考』(明治14年〈1881〉刊)などが挙げられる。 義想もまたこの『瓶史』の精神に大きな感銘を受けた一人であり、『瓶史』を校訂して刊行し、同時代に創流された他の流派と共々、多くの人々の共感を呼んだ。当時の記録によれば、江戸・相模を中心として門弟三千人を越えたと言われている。又、武士でも漢籍か中国書画などの知識を持った人々に支持され武家のいけばなとしての地位を確立した。肥後細川藩のお家流として宏道流が現在に至っているのもこうした背景に依る。
  梨雲斎 姓は望月氏 名ハ義想ニシテ俗称調兵衛ナリ 江戸ノ人ニシテ家ハ世篠輪津(不忍)ノ西ニ住ム 享保七年壬寅ノ正月ニ生マレ文化元甲子の歳九月ニ死ス。 歳八十有三歳ナリ 詩ヲ賦シ 書ヲ娯シミ 又性幼年自リ挿花ヲ嗜ム。 常ニ胆瓶ヲ以テ時花ヲ貯ヘ 之ヲ挿ミ換ヘテ倦ム コト無シ 人或ヒハ之ヲ花癖子ト謂フ。 嘗テ袁石公(袁宏道)作ル所ノ『瓶史』ヲ読ミ 沈潜翫味スルコト之ヲ久シウシ 同行ノ者ト談論スル毎ニ嘆ジテ曰ク 挿花ノ『瓶史』有ルハ猶礼楽ノ春秋有ルガゴトシト 遂ニ『瓶史』一篇ヲ挙ゲテ之ガ為ニ序シテ其ノ義ヲ表章シ 其ノ薀ヲ申抒シテ以テ諸ヲ同臭ノ侶ニ喩ス 是自リ以来知リテ之ヲ好ム者都下ニ藩衍シ施テ他ノ邦ニ及ブ本朝ニ於テ『瓶史』開元ノ祖也。 そして文化年間には、義想の指導のもと高弟たちの手により、『瓶史』に詳細な註解をほどこした『瓶史国字解』(全四巻)が刊行され、ついで高弟の一人である桐谷鳥習は宏道流門人の総力を結集して『袁中郎流挿花図絵』(全九巻)を刊行した。これには三百三十余点の作品が収録され、江戸時代に刊行された二百数十書の花書の中でも、合わせて全十三巻という著作はきわめて例外的なもので、これも花道史上特筆されることである。 この後、宏道流は『瓶史』の挿花精神をバックボーンとしながら、二代義達、三代義徳、四代義泉、五代義寛、六代義耀、七代義琮と継承され、現在八代目として義瑄に受け継がれている。

宏道流とは